文藝春秋 6月号に掲載された村上春樹さんの特別寄稿を読みました。
自分の父親との思い出や、父親の父親(祖父)の生まれや経歴を辿りつつ、自らの個人的なルーツを語った内容。
我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。
言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。
村上春樹
上記の引用部分は、何か心にひっかかるものがあるので、村上作品を再読しなくては!と思ったり。過去の村上作品を読んだときに、上記と逆のメッセージを受け取ったことがあるような気がしてそのあたりを確かめたいなと。
「固有」、「交換可能な」、「集合的な何か」あたりのワードが手がかりになりそう。
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